甘熟甘懐。

続・お風邪と言い訳~一日後

ペンが紙の上を滑る。
足下にかかっていた重みが離れ、書類を捲る乾いた音がする。
カチッと何かが合わさる音が響き、顔の横にぼすっとその何かが降ってくる。
重たい頭を必死の思いで左側へ動かすと、枕元に見慣れたケイタイが鎮座していた。

「…コ……ウさ……。」
「なんです?」

すべての音が止んで、視界がひょっこり顔を出したチェイサーでいっぱいになる。
同時に前髪をかきあげられ、冷たい掌が額を包む。
思わず閉じた瞳をまた開くのが億劫で。
じんわり広がるような痛みを瞼の裏に感じながらほうと息を漏らした。

手が離れて、ただそれだけで悲しくなる。
でも、寂しさで胸が押し潰されるより早く、代わりにちゅっと濡れた感触が触れてからまたすぐに離れていった。
ゆっくりと瞼を開く。

「もう少しで換えのタオルがきますから。寒くはないですか?」
「……ん。」

愛おしげに見つめてくる緋色の瞳に見惚れていたら、ふいと視線を外されてしまう。
…だって仕事中だ。俺ばかり構ってはいられないんだ。
またページを捲る作業が再開される。

昨夜いつの間に眠ったのか…。自分ではよく覚えていない。
ただ夢の中で、何かに追いかけられて追い詰められているような…。何かを掴みたくて、でもそれは叶わなくてもがいているような…。そんな、よくわからないものによって胸が苦しくなって、嗚咽を上げて泣いていた。
必死で救いを求めて、誰かの名前を呼ぼうとして、でもそれは全然形にならなくて言葉にならなくて。
目覚めてしまってからは、一体何の夢だったのかさっぱりわからなくて、しばらく茫然としたんだけど。
ノックの音とともに入室してきたコウさんに、ベッドの上に横たわったまま抱き締められ、夢の意味どころではなくなった。

朝になっているのはわかるんだけど。
頭の下に何か冷たいものを入れてもらえたのはわかるんだけど。
コウさんが、傍の椅子に足を組んで座って、何やら真剣に作業しているのもわかってるんだけど…。
ええっと、じゃあ俺はどうすればいいのかな…?

ふいに響いたノックの音にびっくりして。何も言えずにいたら、コウさんが代わりに返事をする。
扉を開いて顔を覗かせたのはマーマさんで。
俺の方を見つめて、にっこり微笑んでくれる。

「咳は治まったみたいだね~。でもまだぼうっとしてる感じかな~。」

立ち上がって近づくコウさんに、右手に持っていたタライを渡す。
自分はベッドの傍にあるテーブルへトレイのようなものを下ろし、脇に挟んでいたシャツを数枚タンスにしまう。
あ、俺の服…。洗濯してもらっちゃったのか…。
申し訳なくて、ありがたくて。どうしてそこまでしてもらえるのかわからなくて。
呆けたまま見つめていたら振り向いたマーマさんと目が合って、枕元まできてくれて頭を撫でてくれた。
あれ……? 少し、瞼が腫れぼったいような…。

視界の外で、水音がする。
涼しげな音色。
空気がそれに合わせるように、少し冷たく凍った気がした。

「飯終わって薬が飲めたら、湯を汲んでくるから。おまえの食事はどうする~?」
「では湯と同時で。」
「うい。ケイケイ、またあとでくるからね~。」

コウさんの腕をぴたぴた手の甲で叩いてから、俺にはバチンとウインク一つして、マーマさんが鼻歌を歌いながら部屋を出ていく。
その背中を見送っていたら、両目を覆うように冷たい何かが乗せられた。
軽く上から押さえつけられて、じんわり目玉を刺激していく。
気持ちいい…。

真っ暗闇でばさばさと紙の束が音を立て、傍にいる気配が近づいたり離れたり。
心の中で何度も名を呼んだ。
口に出す勇気はない。
どうして。なんで。
浮かんだ疑問を何度も何度も、胃の中へ押し戻す。

ずずっと何かを引きずる音とともに、戻ってきた気配が椅子に腰かける。
大きくて冷たい手が両頬を包んで、そっとタオルを額まで捲りあげられた。
優しい瞳とぶつかる。
ねえなんで。
どうして。
聞きたいのに、唇が震えて言葉にならない。
知りたいのに、胸が苦しくてその邪魔する。
今きっと期待通りの答えが返ってこなかったら、号泣してしまう。
頭を撫でて慰めてくれなかったら、何もかもに絶望してしまう。

望んじゃダメなのに。
頼ってはいけないのに。

「口を開けてください。」

そう言うコウさんの口がまず開く。
言われるがまま同じように真似して薄く口を開くと、銀のスプーンが歯列を割り、温かい何かが流し込まれる。
噛み砕こうとして、無意識のうちに飲み込んでしまう。食道と腹にぽわっと染み渡る。
舌の上にいたのは一瞬なのに、通り過ぎてから優しい味が口内を満たした。

「おいし…。」
「粥と言うそうですよ。フェイヨンやアマツでは有名だそうですが、僕は初めて見ました。」

俺は何度も見たことがある。食べたのは初めてだけど。
腹が減っているからか、久しぶりのあったかい柔らかい食事だからか、やたら美味い。
仕事の手を止めさせてしまっているのだから、迷惑をかけているのだから、起き上がらないといけないのに。
自分でスプーンを握って、咀嚼して嚥下して。いつも通りに暮らさなくてはいけないのに。
コウさんがそんな優しい目をするから、傍にいてくれるから…。
全身で寄りかかりたくなる。甘えたくなる。
俺の葛藤なんて知りもしないで、時々ふふっと息だけで微笑みながら、せっせとお粥を運んでくれる。
ちゃんと火傷しないよう、ふうふう息を吹きかけてから。

手を伸ばすだけで握り返してくれそうで。強請るだけで撫でてもらえそうで。
氷枕だけで十分。冷たいタオルだけで十分。温かい食事だけで十分。話してもらえるだけで十分。ベッドを貸してもらえるだけで十分。
申し訳ないのに。情けないのに。そんなことしてもらえる価値なんて俺にはないのに。
贅沢な望みばかりが脳裏に浮かぶ。
キスがほしい。抱き締めてほしい。傍にいてほしい。ずっと俺だけ見つめていてほしい。
我慢しなくちゃいけないのに。それが当たり前なのに。
優しいコウさんは絶対慰めてくれるから。
泣くなんて卑怯なのに…。
涙が出そう。

「いい子ですね。薬を飲みましょうか。」

結局キレイに完食してしまって。
後ろ頭と背中を支えてもらって、体を起してもらえた。
首に寄りかかって、はあっと息を吐く。ぽんぽんとリズムを刻む大きな手。
もう嫌だ。泣きたい。
あったかい。離れたくない。

震える手にしっかりグラスを握らされて。
太い指が小さな錠剤を三つ…唇をなぞってから押し込んでくるので、胃の中に水で流し落した。
顎を固定され、軽いキスが降ってくる。
冷たい唇。
でも、すごく甘い。
あぁ……もう、そんなことされたら。

「ふ…ぇっ…。」

ぎゅっと抱き締められて、泣きじゃくる俺の頭をコウさんが撫でる。
たまに名前を呼んでくれて、嬉しくて切なくて、制服を握りしめて胸に顔を埋める。
なんでこんなに優しいの。
なんで傍にいてくれるの。
なんで甘やかすの。

なんで聞き分けのいい子のままで、いさせてくれないの。

「僕の食器は寝かしつけてから返しに行きますよ。」
「あーうん。……一応注意しとくね~。病人だからね~? ケイケイは。」
「僕を何だと思ってるんですか。」

コウさんの向こうからマーマさんの声がして、がちゃがちゃと食器のぶつかる音がする。
いつの間に来たんだろう…。
泣いてるのが情けなくて、見られたくないのに、涙はちっとも止まらない。
言葉を紡ぐ度に、表皮を通して俺の体にまでコウさんの声が響く。
重くて、低くて、深くて、甘い。
開く音はしなかったドアが、閉まるのは感じとれた。
会話の途切れた室内に、俺の泣き声だけがか細く響く。

「着替えましょうか。気持ち悪いでしょう。」

体を少しだけ離して、そんなことを言う。
慣れた手つきで前のボタンを外され、湯で固くしぼったタオルが外気に晒された肌の上を滑る。
気持ちがよくて。
安心してしまって。
そんなことで涙はぴたっと止まってしまう。
なんて贅沢なんだろう。
なんて幸せなんだろう。
人生のすべて分の幸運と、少しだけ振った運のステータスをひっくるめて考えても、ありえないことだと思う。
俺、明日死んじゃうんじゃないだろうか。
俺、もう今すぐ死んじゃうんじゃないだろうか。
これって死の間際に神様がくれた、ハッピーの方のエンディングイベントなんじゃないだろうか。

丁寧に背中も足も拭いてもらって、ほうと息を漏らしているうちに柔らかい布の感触に包まれる。
額にまた濡れたキスが降ってきて、驚いて顔を見上げると同時にぽすっとベッドの中へ戻されてしまった。
肩まで毛布を引っ張り上げられる。
ぽんぽんと胸の上で、安心するリズムが刻まれる。
視界の端で一枚の書類が風に乗り、ふわりと地面に着地した。
それをコウさんの瞳があわてて追いかける。

「コ…ウ、さ…。」

背後を振りかえっていた視線が、また戻ってくる。
仕事中なのに。食事だってまだなのに。冷めてしまうのに。呼び止める資格なんてないのに。目を合わせる価値なんかないのに。
自分勝手な俺の喉が、甘えた声を発する。

「どうしました? ……いなくなったりしませんよ。」

大事な書類を放ったまま、体ごと向き直ってくれた。
勝手に毛布から飛び出して、制服の裾を握りしめていた手を優しく包み込んでくれる。
大して力の入らないそれはあっさり引きはがされて、布団の中に戻される。
左手が俺の右頬を撫でる。思わず両手で掴んで、唇を引き結ぶ。
ダメだ。また泣いてしまう。我慢しないと。伝えないと。
あの言葉を。

「俺、大丈夫、だから…。」
「…。」
「仕事に……戻っ、て……。」

俺のために割く時間なんて、今のこの人にあるわけがない。
俺の所為で無理をさせている。俺の所為で仕事を持ち帰る破目になって、さっきから枕元でずっとケイタイが震えている。
目が合う度に微笑んでくれて。時折額に額をくっつけて熱を測ってくれて。
俺なんて放っておけばいいのに、風邪なんて引いてしまって辛そうにしているから、仕方がないから、傍にいてくれる。
飯も食わせてくれるし、体も拭いてくれる。着替えもしてくれるし、俺が泣いてしょうがないからキスをしてくれる。
マーマさんには飯を作らせて、水を張った湯を張ったタライを準備させて…その上洗濯までさせてしまった。
笑わなきゃ。
この手を離さなきゃ。
起き上がって、快く送り出さなきゃ。
このままじゃ、優しくて忙しいこの人たちの時間を、理不尽に奪い続けてしまう。

「嫌です。」
「え…あっ………んんっ……。」

立ち上がったコウさんが覆い被さってくる。
冷たい唇に熱い唇を吸われ、反論しようと開いた口の中に舌が滑り込んでくる。
嫌だ。ダメだ。
俺の口内はウイルスまみれで。
同じ部屋にいるだけでも移ってしまいかねないのに、こんなキスをするなんて!
俺なんて一生風邪で苦しんだって構わない。
迷惑かけるだけかけて、その上多忙なコウさんに移してしまったら…。
そんな俺なんて、肺炎でもなんでもなって、死んじゃえばいいんだ。
甘やかしてくれる気持ちにつけこんで、泣いて縋ってキスまで強請って…最低だろ。
何様なんだよ。

「ん、んんッ…ぷぁっ…。」

好きなだけ暴れ回って、唐突にそれは離れていった。
唾液が橋をかけて、瞬く間にそれは空気にはじけて消える。
肩で息をする俺の両頬を掴んで、怖い顔で睨んでくる。
涙が止まらない。

「君の家庭の常識なんて知りません。僕は僕のやりたいようにやってるんです。君のためなんかじゃありません。」

胸の中心を深く抉り取られた気がした。
呼吸がおかしくて…。いや、おかしいのか、できてないのか、わからなくて。

俺の所為で。俺のために。
そんなのは俺の思い上がりだ。
コウさんは自由だ。
俺が風邪を引いたからなんだって言うんだ。
コウさんの行動を行為を考え方を思いを、立ちはだかって阻止して捻じ曲げようとするなんて…おこがましいにもほどがある。
全部自分が原因だと、俺がわがままを言わなければ引きとめなければ、なんて。図々しいにもほどがある。
この人にとって、俺という存在が、それほどの影響力を持つはずがない。
コウさんにはコウさんの事情や考えがあって、ここにこうして生きているんだ。

前が見えない。
自分が立っているのか座っているのか寝ているのか、そんなこともわからない。
黒い渦に絡めとられて、底なしの沼に吸い込まれるように落ちていく。
恥ずかしい。みっともない。消えてしまいたい。いなくなりたい。

抱き締められる価値なんてない。
涙を拭いてもらえる価値なんてない。
キスを降らせてもらえる理由がない。
撫でてもらえる理由がない。

コウさんに愛してもらえる資格なんてない。
コウさんのすべてを縛る権利なんて…あるはずがない。

「君の熱を測るのが、君に粥を食べさせるのが、君に薬を飲ませるのが、君の体を拭くのが、君を着替えさせるのが、君の泣き顔を見るのが、君が縋りつくのが、君の背中を撫でるのが、君にキスするのが、君の風邪をもらうのが、君の隣にいるのが、僕以外の誰かなんてまっぴらです。腹が立ちます。寒気がします。吐き気がします。冗談じゃありません。全部僕にこそ許されるべきです。誰にも譲りません。」

怖い顔のまま、眉間に皺を寄せて、でも、はっきりと語り聞かせるように。
両頬を挟んで、耳の淵を指でなぞって、額をくっつけて、一言一言すべてが体に染み込むように。

いつも以上に馬鹿になってしまった重い頭で必死に理解しようとする。
小さな空気の振動を拾い損ねる役立たずな鼓膜で、愛しい人の声を聞く。
止めどなく流れ出る涙の海で溺れながら、不明瞭な彼のすべてを脳裏に焼き付ける。

そこまで一気に捲し立てたあと。
コウさんはびっくりするくらい柔らかく…笑って。
それから。

「すべて僕のわがままです。拒否したいのなら構いません。嫌がって逃げてもいいです。ただそれらを実行する前に…風邪が治ってからどうなるのかを想像してみましょうね。」


きつくきつく俺を、抱き締めた。


「…っ…めんな………さい……。」


大きくて優しい愛を、ありがとう。



―終―


あとがき。

ここまでのお付き合い、ありがとうございます。
ハンターのお風邪後日談っぽく「カード」の続編です。
楽しんでいただけましたでしょうか。

後半へ続くとばかりにぶっつり途切れた感じで終わった前回。自分的にあそこで唐突に終わってしまうのも手かと思っていたのですが、続きをと言ってくださる声がありがたくて書いちゃいました。
チェイサーも不完全燃焼だったのでしょう。一秒たりとも離れませんとばかりにべったり甘やかしてくれました。これでハンターの熱も下がるでしょう。

ちょっと君が君が書きすぎて、君って日本語あってるっけ。とか途中でなりましたけども!

 
高菱まひる
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