甘熟甘懐。

はじめてのおつかい(1/2)

プロンテラの街に立つ壁ってどこもざらざらしてる。
でこぼこしてて、そこに紙あてて字を書くと、五画に一回くらいの確率で穴があく。
その所為で何回も書き直しが発生して、でももう最後は誰に見せるもんでもねえからいいやって、開き直ってそのまま書き進めた。
諦めて途中で放り出そうかとも思ったけどさ…。
だって仕方ないじゃん。こんなにたくさん、空じゃ覚えらんないんだもんよ。

「すく…しょ……と、り、れき? しょ……。ぼうけ、んしょう……は、じさん…のう、え。」

つい書面を読み上げながら書いてた。端から見たら怪しい人だったって気づいたのは、必要最低限と思しき部分を写し終えた後。
はぁぁ人通りの少ない時間帯でよかったー!
幸い遠くの方に露店がぽつぽつ見えるだけで、誰も俺のことを怪訝な目で見てる人はいなかった。
ほっとしたところでもう一回。誤字脱字をチェックする。
読めなくても、形を似せて書いたつもりだから、辞書引きながらならいけるはず。
でもすでに解読できるところだけでも三分の一くらいが理解不能なんだけど…。
誰か噛み砕いて教えてくれないかなぁ。

コウさんに、聞いてみようかな。


玄関扉をくぐったら、共有リビングがわいわい騒がしかった。
朝出掛けた時は数人しかこの場にいなかったから、俺が狩りへ出ている間にどっさり帰ってきたんだろう。
見慣れた後ろ頭目指して歩いていったら、声をかける前にそれがくるっと振り向いた。

「おかえりなさい。」

今日は機嫌がよさそうだ。
薄く笑って膝を叩くので、ぐるりとソファを回り込んで目の前に立つ。大きな手に促されるまま腰を下ろした。
後ろにいる体温がくすぐったい。

「ケイちゃんおかえりー。」
「うん…ただいま。早かったな。」

コウさんもそうだけど、今朝出発したメンツがその日中…それも日が陰る前に戻ってくるなんて珍しい。
最近なんだかピリピリしていた空気が、若干緩和されたように感じるから、何か大きなのが片付いたのかもしれない。
皆どことなく浮かれているみたいで、ほっとしているみたいで。
単純だけど、俺も一緒に嬉しくなる。
何てことはないように仕事へ向かう人ばかりだけど、常に危険とは隣合わせなんだ。
無事に終えてくれてほんとに良かった。

「あ、そう言えばさー…。」

中断されてた会話がまた再開されたころ、今はどんな顔してんだろうと気になって後ろを盗み見た。
人の髪をくりくり捩って弄びつつも、視線は話し掛けられた右隣を見ている。
強面だけどさ、表情はよく変わる方だ。今はなんか、朗らかに笑ってる。
腹を支えている手が無意識だろうかぽんぽんとそこを撫で、身じろぎする度に俺を落とすまいとしっかり力が篭る。
こっち見ないかなぁ…?

「どうしました?」

太い人差し指をきゅっと握りしめたらこっち向いた。さっきまで会話してたローグさんと一緒に首を傾げてる。
あ、う、話の腰、折ったかな…?
でもなんか今途切れたっぽい気がしたんだ。いけるかな?
…よし。聞くぞ。
ちょうどいいタイミングにいてくれてよかった。
何か小難しい書類とにらめっこしているのを何度も目撃したことがあるから、たぶん読めるよな。

「あの、教えてほしい…ことが。」

見上げて告げれば目を見張られる。
まぁこういう反応にはなりますよね。うん。あんまこういう切りだし方しないもんね。うんうん。
面白そうだと聞き付けたローグさんたち数人も注目してきて、気付けばいっぱいの人に集られていた。
え、や、さらっと聞きたかっただけなんだけど。
そんな皆さんに手を止めて口を閉じて聞いてもらうような、そんな大したことじゃ全然なくてちょうお恥ずかしいんだけれども…!

「珍しいですね。」
「どったの?」
「何の話ー?」

おうふ…。やっぱ二人の時がよかったかなぁ…。
もしかしたら実はすごく単純で簡単なことで、俺だけが知らないことかもしれないし。
確かに頭は良くないんだけど、それはもう皆に気付かれていると思うんだけど、でもまた取るに足りない小さな段差に躓いて転びかけてるなんて知られてしまうのは恥ずかしい。馬鹿にされたりはしなくとも、苦笑は絶対返ってくる。
そんなの、そんなのなだらかな丘くらいしかないプライドでも、なんだかチクンと傷付くじゃん…。
とか、一度気がついてしまえば無視できなくなってしまった。
どうしたものかと一度俯く。

「あ…。」

もじもじしていたら、痺れを切らしたふうなコウさんに握りしめたまま忘れていたメモを目敏く見つけられてしまった。
自分の肩に俺の顔をぎゅっと押し付けて、静かに頭を撫でながらいつの間にかスティールしたメモを視線だけで追っているらしい。
ほんと当たり前のように俺のもんスっていくよなこの人…。
別にいいですけどね!

「なになにそれなに?」
「コウー俺にも見してー。」

え、うああ。そんなのだめえ! やっぱやめ! 返して!
それ、すげえぐしゃぐしゃだから! 俺だけがわかるように書かれた暗号だから! 俺という頭脳がないと解読できない代物だから!
あわあわ両手を上げて阻止を試みる俺と、次々群がるローグさんたちの攻撃とを無言で受け流しながら、誰にも見えないように読んでくれるコウさん。
俺の葛藤が伝わっていたんだろうか。
どうしてわかったんだろう。
なんか、なんかちょっと嬉しくなったり…。
だってなんでかわかんないんだけど、コウさん相手になら…多少恥かいてもいいかなって、思うから。
…うん。

そんなに長い文章じゃない。しばらく左右に文字を辿っていた緋色の目が、程無くしてぴたりと止まった。
折り目通り畳み直してから、眼光鋭く見つめられる。

「バイト募集の写しのように見えますが?」

ひそめられた眉が、承諾しがたいと物語っていた。


膝に抱かれたまま、コウさんの部屋に移動した。
ごちゃごちゃ広げられたデスクの上を強引に掻き分けてスペースを作ってもらう。
愛用のしゃれおつな羽根ペンまで貸してもらって…、いいのかこんなご大層な! 俺ごときが使ってもいいの? すっげえ高そうなんですけど。先っぽ折らないように気をつけないと…。

うー…んでもって恥ずかしいから、あんま凝視しないでほしい。
俺字ぃ汚いんだよ…。

「任意って?」
「“お気に召すまま”ってことですよ。」

ふうん? よくわからないけど、綴り忘れたからいいや。
本名なんて知らせる必要あるんだろうか。まぁあるから欄が設けてあるんだろうけど。
さすがに冒険者登録名は迷わず書けた。
書き慣れてるから他の字よりは綺麗なんだぜ。ちょっと上手くいったし今日のは。やっぱペンが安物とは違うからか?
次は住所…だよな。住んでる場所か。

「どうすっか…。」
「ここのを書いたらいいんじゃないです?」

えーローグギルド寮とかそんな正直に書いちゃうの?
えー? それなんて笑えない冗談? って思われないかなぁ。

「それって、でも…。」
「実際住んでいるんですから、偽る方が不自然ですよ。」

あーまーうん。それもそうだな。
正確な番地まではわからないから、後ろを僅かに振り返って聞く。
瞼をしぱしぱさせたかと思うと、書類の束から直筆らしいそれを発見して隣に並べてくれた。
…面に似合わず綺麗な字を書かれるんですよ、この方。
読みやすいなぁ。いいなぁ。
代わりに書いてくれねえかなと思いつつ、交互に見ながら写す。
ガキっぽい字なのが丸わかりだー。もー。

「えーと次は…。」
「上から順にいきます?」
「うん。」

僕だって履歴書なんて書いたことないですよ、なんて言いつつ、パッケージに同封されていた説明書をかみ砕いて教えてくれる。
右手に持ったガタガタ震える字のメモも同時に睨みつけ、左手に俺の左手を絡めて遊ぶ。
書きにくいって一回文句言ったら、やめにします? って真顔で迫られたのでもう言わない。
さっきからなんで急にバイトなんて…とかブツブツ言ってるので相当不満らしい。
まぁそんなの無視無視ですけど!

あれを書きたいこれを表現したいって伝える度、しぶしぶ机の上を滑る指。ロスタイムなんてなく流れるように紡がれるスペルを必死で辿り追いかける。
それってどういう意味って聞いたらぶすくれたまま読み上げてくれて、間違った字を優しく正してくれる。
ほんとに何でも知ってるなぁ。つうか俺が知らなさすぎるだけ?

「ここは何?」
「アカデミーを卒業した年と、今までの勤め先を書くところのようですね。」

アカデミー…? あの冒険者になってすぐ案内されるらしいところか。行ったことないな。
気がついたらノービスだったし。父さんが手続きとかしてくれたと思うから。
勤め先…も特にない。じゃあここ真っ白に開いちゃうのか…。

「あ。」
「これ、ハンターギルドからの募集でしたっけ?」

思ったより埋まらなかった升目をぼんやり眺めていたら、それが取り上げられる。
咄嗟に目で追った先につまらなそうな顔。
髪をすくように撫でられながら、その通りなのでこくんと頷いた。
こういう募集って結構あるみたい。傍に大聖堂のとかも貼ってあった。さすがに条件はもっと限定的だったけど。

「プロンテラ城のそばに掲示板があった。」
「このテンプレートもですか?」
「テン…?」

ひらひらと目の前で踊る履歴書。あ、これのこと聞いてるのか。

「あ、違くて。それはケミさんが近くで売ってた。」
「…なるほど。」

何のことだか聞いてから必要なもの買いに行こうと思ってたら、目の前に看板があったんだよ吃驚した。
五六分迷ってから、勇気を出して聞いてみたんだ。
この履歴書って言うやつ、あの募集要項に並んでる物と同一かって。
したら、これ一式買っていくといいよって、教えてくれた。
正直財布には痛い値段だったんだけど、必要経費だから仕方ない。
おまけだって言って、やたら軽いペンまでつけてもらっちゃったから、お得だったのかな。

しばらくじいと横目で見られて、それから視線はまた紙の上を走る。
他のローグさんには読めないよって苦笑されることがよくあるんだけど、コウさんからは聞き返されたことはない。
合ってるのかな。伝わるかな。
コウさんの察しがいいから読めてるだけとか、そんなことないよね? 他の人にもちゃんと届くよね?

受かるかなんてそんなのわからないけど。
雑用って書いてあった。資料の整理とかお茶出しとか。掃除とかしてもらうって。アルバイトって言うんだって。

「コウさん。」

まだ自信なんて何も持ってないけど、そんな俺でもできそうなのを見つけたんだよ。
条件が“弓手系である”って、ただそれだけだった。強くなくても、装備がなくても、これなら大丈夫かもしれないんだよ。
ギルドの仕事なんて大層なものじゃないし、給料も微々たるものかもしれないけど…。

コウさんだけじゃなくて、俺っていう存在が他の誰かに必要とされるのなら。
失敗は怖いけど、でも、コウさんが優しく見守ってくれるのなら。
チャレンジしてみたい。
どこまでやれるか、試してみたい。
そこまでは自分で決心できたんだけど。
あともう少しが足りない。

「所属はどこですか?」
「しょ…?」
「まぁいいです。珍しいケイのわがままですからね。」

コウさんに、背中を押してもらいたい。
行っておいでって。そう言って、認めてもらいたい。

「いじめられたら言うんですよ?」
「っ、いじ…俺は餓鬼か!」
「餓鬼でもなんでもいいです。その際は、ハンターギルド諸とも根絶やしにしますから。」
「根っ絶や…!?」

後ろからぎぅっと抱き締められて、吐息が首筋に当たる。
吃驚して首を捻って後ろを向いたら、薄い唇から舌を差し込まれて、吸い上げられて軽く息が上がる。
何度かくっついたり離れたりを繰り返して、真剣な眼差しが俺を射抜いた。

「僕からケイを一時的にでも取り上げようと言うんですから。その上傷つけるなんて、喧嘩売ってるとしか思えませんね。」

取り上げるっつーか向こうにそんなつもりはないと思いますけど!
俺が勝手に受けようとしてるんだしさぁ…。

ここまで冗談で言ってるんだと思ってた。
でも、よくよく考えたらこの人の冗談は二割を切るんだった忘れてた。
じゃあなんだ、まじでギルド相手に喧嘩売るつもりなのかチェイサー様よ!
そんなのだめえええ!! 俺なんかのためにそんなおっそろしいことさらっと言っちゃだめえええ!!!
ちょ、ねえお願いだから心臓に悪いことしないで! 俺が心配しなくともその辺バレねえようにやるんだろうけど、だからってわざわざ放火しにいくことないじゃん!? ねえ!?

ちぅちぅ顔中を舐められキスされて。
合間に擦り寄られて、甘えてくるコウさんに盛大焦った。
やばいこの人本気だ! 普段べったりしてる時は余裕満タンなのに、これはイライラが抑えられなくなってきてる証拠だ!!
慌てて頭を両腕で抱き寄せて説教した。いや違う、懇願した。
上手くやるから、嫌われないように頑張るから、だからしばらくは見ていてほしい。
俺だって、やればできるんだから。できるってところを、自分に示して自信に繋げたいから。
コウさんにも、見てもらいたいから。褒めてもらいたいから。

だから少しでいいから、俺を信じて、時間をください。

そしたらなんか納得してくれたのか、諦めてくれたのか、しばらく見つめ合った後にふーと鼻だけで溜息をつかれた。
俺の背を抱え直して、胸に抱きこむ。少し興奮した胸元が、息を整えようと上下している。
目だけを動かして表情を確認した。眉間の皺がすごく深い。
我慢してくれてる。俺なんかのために怒って、イラついて、ヤキモチ妬いて、スネてくれてる。
ここを伸ばすのは俺の仕事だ。ちょんとキスをするだけ。ただそれだけなんだけど。

驚いたのかきょとんとした顔が二三度瞬く。
そっから情けない表情にシフトしたコウさんが、俺の鼻の頭を一舐めしてから唇を尖らせた。
へへ。可愛いなぁ。愛おしいなぁ。

その後は、たくさんキスをした。ご機嫌とりじゃなくて、離れ難くて。
何度も強請って、してもらった。


ローグギルドは今日も賑やかだ。
ここ五日ばかしは、一部を除いてほんとに平和だ。
いつも以上に流れる空気があったかい。夜になるとさすがにひやっとしますけどね!

「あ、ほら寝癖! 直してあげるからここへ座んなさい。」
「爪は切った? 尖ってるとこない?」
「顔色が悪いわぁ。コウったらまた昨日無理させたんじゃないでしょうね!?」

頭を掴まれて、使い古したゴムをひっぱられる。
適当にすいた髪に再度櫛を通されて、あわあわしている間に束ね直された。
首の後ろがいつもよりスースーする。
…あれ、でもそれ、手に持ってるの俺のゴムじゃね…?
え、じゃあこの今巻かれている紐は一体どこから? 貸してもらえるのかな?

「…させてませんよ。」
「つうかはりきり過ぎじゃね? 我が子の入学式かっつうの。」

半目のコウさんは男ローグさんとダイニングチェアに腰掛けこちらを眺めているばかり。
こっちはソファの方にいて、女ローグさんたちに囲まれている。
朝寝ぼけ眼で階段を下りてきて、パンを齧っていたらここまで拉致られた。
あっちこっちから手が伸びてきて、訳が分からなくておろおろしてる間にいろいろ触られてる。
縋るようにコウさんを見ても、諦めてしまっているのか助けてくれようとはしないで、その上睨んでくる。
ああう。俺悪くないのにい! 次は何されるんだろう。もうやだこわいよう。どうしたらいいのー!!

「入学式だったらついていくのにいい!」
「ケイきゅん一人ぼっちで向かわせるなんて心配だわぁ。」
「いい? いじめられたらすぐに言うのよ?」
「そうよ! あたしら総出で抗議に行くからね!」

どんだけ俺いじめられっこキャラなんだよ!
俺だってそう簡単にはやられ…やら、やられねえ…ぞ?
つか、そこでやれやれ大袈裟なと言わんばかりに溜息ついてるチェイサーさんは、自身が完全に棚の上に上がってますけど、数日前根絶やしにするとか言ってませんでしたっけ。
あんたの方がだいぶ大層だよ!

さて、朝っぱらから多くの人が構ってくれてる理由は、俺がこの間郵送した履歴書が何の冗談かあっさり一次選考ってやつを突破してしまったから。
今日は面接っていうのをするために、フェイヨンにあるハンターギルドの支部に来いとのことだった。
フィゲルの本部には何度も行ってるけど、こんな近くに関連施設があったんだなぁ。
あの街には割と通ってるけど、特別ハンターばかり見かけるなーなんて感じたことはない。
最近できたのかな?

「ねえあとどのくらい余裕ある?」

届いた封書にこめられていたスケジュールとにらめっこしていたコウさんを数人で振り返る。
ちらりとこちらを確認した後、目線は再度三つ折りの手紙を追い、次に壁にかかる時計を見上げた。
一瞬ばちっと目が合ってから、質問者へと視線が落ちつく。

「二時間くらいですかね。」
「まだいけるわね。ケイちゃん爪磨きましょー。」

み、磨く?
え…何を? 爪を?
……爪って磨くもんなの?

とまどう俺の返事は待っていられないのか、ぐいぐいと両手を別々のローグさんにひっぱられ、先っぽに何か柔らかいものをあてがわれた。すいすいと表面を撫でていくから…なんかくすぐったい。
なんだか第一印象は大事だからって言われて、ギルドからの通知が届いてからと言うもの、いろいろなレクチャーを受けている。
身なりを整えるのも含まれているみたいで、シャンプーやリンスにまで物言いがついた。
おかげ様でなんだか髪から甘い匂いがする。指通りもなんだかするするしてる。
誰かさんは嫌な顔するんだけど、それでも何度か無言で嗅がれたりしてるから、我慢できないわけではないらしい。
僕のケイなのに…とか言われた気もするから、いじくりまわされるのが気に入らないのか。
いや、それもし言うとしても俺の台詞だから。

掴まれた手にじっとり汗をかく。
女の人にこんなにずっと指触られてたことないんだもんよ!
すげえ居た堪れない。ちょっと恥ずかしい…。

「せっかくの休みなんですから、このままデートに行きません?」

意識しないように明後日の方向を向いていたら、後ろから声を掛けられた。
まぁ相手はもちろん振り向かなくてもわかる。
さも今思いついたように提案してくるが、ぷち機嫌の悪いコウさんは三日ほど前からずうっと同じことを言っている。
やっと取れた丸二日の休み初日が俺の面接日とかぶって、ただでさえ乗り気じゃないのにさらに気に入らなくなったらしい。
…一日行くわけじゃねえし。
帰ってから構ってくれたら、俺はそれで幸せなんだけど。

「往生際が悪いわよコウ。」
「そうよー。週三日程度なんだし、拘束時間も短いらしいじゃない。」

手の甲をじろじろと見つめて、出来上がりをチェックされてる。
逆剥けも綺麗に切ってもらって、どう? と聞かれて改めて確認すれば…。

「ピカピカだ…。」

ハンドクリームってやつまで塗ってもらった。
手首から先っぽまでがやたらてらてらしてる。
えーこれほんとに俺の手? なんかいつもよりぷっくりして見えるんだけど。

「うーん完璧! まぁ欲を言えばお化粧もしたいとこだけどー。」
「おけっ!?」
「男の子だし~、元から可愛いからいらないわよね。」

ねっ。と同意を求められましても!
可愛いなんてここの人にしか言われたことないし、子って言われたら否定したいんだけども、化粧はしたくないので結局はこくんと頷く。
ぼそぼそお礼を言ったらふわりと微笑みかけられて、頭を撫でてくれた。
なんだか落ち着かないけど。
俺、ちょっとは見目良くなったのかな?

「ケイ。」

道具を片付けるローグさんたちを眺めていたら、やけに真剣な声で名前を呼ばれた。
ぶつぶつ文句は言われたけど、ここまで邪魔、もとい助けてはくれなかったから、今日行かせてはもらえるんだろう。
条件反射のようにふらふら寄って行くと、ぐいっと腰を抱き寄せられる。
ダイニングテーブルを囲んでいた男のローグさんたちがにやにやしながら顔を覗き込んできた。

「忘れもんないかー?」
「うん。」
「ちゃんと敬語使えよ。」
「あ…。は、い。」

そうだ。年上ばっかだろうし、ここみたいに上下関係は緩くない。仕事なんだからちゃんとしないと…。
やべ、どうしよ。緊張してきた。
目の前にあったファーをきゅっと握りしめる。
深呼吸。深呼吸しよう。心臓バクバクしてきた。

「コウみたいにしゃべりゃいけるって。」

ぶつぶつ挨拶を練習すると、途中でうっかり砕けた口調になる。
あぁ…コウさんの真似?
お、なんだ、それならほぼ毎日聞いてる。できるかもしれない!
コウさんみたいなの、コウさんみたいなの。

「あらダメよ。これは丁寧に聞こえるだけの偽物だもの。逆に小ばかにされてるみたいで心象が悪いわ。」
「どういう意味ですか。」
「そのままの意味です。」

大きなメイクボックスと言うらしい、道具箱を運ぶ女ローグさんが足を止める。
そこから数名が離脱してダイニングチェアへ腰掛け、数名が自室へ向かうんだろう、階段方面へ消える。
人の腰を撫で回したまま、大人しく会話を聞いていたコウさんから抗議の声があがった。
口尖らして膨れてる。
まぁこの人の場合、嫌味を込めたりはわざとやってるんだろうけど。

「何かあればすぐ連絡するんですよ。いいですね?」

本当に何回も聞かされた台詞だけれども、何かって一体何があるんだ。
俺だって、トラブルくらい自力でなんとかできるよ。
大きくてもうどうしようもなかったら、頼っちゃうかもしんねーけど。
なるべく、ないように、する、し。

…逆に何があったら、連絡しても不自然に思われないんだろう?
会場ついたら、入る前に耳打ちしちゃダメかなぁ。

勇気を、ください。

再度不機嫌さを露わにしたコウさんは、曖昧に笑う俺の頬に、ちょんと小さなキスをくれた。

ようし…がんばるぞ。

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